プロフィール
vol.02東京都在住 (38歳 男性)

95年 慶應大学医学部卒業
00年 Yale大学大学院博士課程卒業
00年 Cold Spring Harbor 研究所 post doctoral fellow
06年 横浜市立大学医学部生理学 教授

四谷祭

私は慶応大学医学部を卒業したが、そこには「四谷祭」という学園祭がある。
もともと学園祭に全く興味がなかったせいか、私自身その四谷祭に出たことは多分なかったと思う。その学園祭には最後にダンスパーティーがあった。そのダンスパーティーの券を実行委員は売りさばく必要があり、それが大きな収入源となっていたようだった。私のような部外者にとって甚だ迷惑だったのは、各体育会ごとに10枚さばかないといけないという義務があることだった。しかも1枚6000円である。もしさばけなかった場合は自腹を切るという信じがたい馬鹿馬鹿しさで、しかしそうは言っても毎年そのプレッシャーを跳ね除ける必要があった。あんな信濃町のキャンパスのどうしようもないホールでやる腐ったダンスパーティーなんかに誰が6000円も払って行くのだろう?という気もしたが、それでも行く愚かな人はいるようだった。慶応医学部のブランドとは凄いものだなと思ったものだった。
私がそのパー券売りの被害に最初にあったのは大学1年の時だった。私は柔道部に所属していたが、当時柔道部の主務をやっていた先輩からある日突然速達で10枚のパー券が送られてきた。そこには1通の手紙が添えられていた。手紙といっても、
 「俺の手には負えん。頼む。」
と一言書かれているだけの無味乾燥なものだった。期日は1週間にせまっていた。前々から「さばけなければ自腹」という死のルールがあることはその主務の先輩から聞かされていた。しかし彼は、
 「任せてくれ」
と言い放っていた。その様子があまりに自信に満ちていたのですっかり大船に乗った気でいたが、その先輩はまぎれもない泥舟だった。おそらく限りなく無策に近かったのであろう。無策の上に乗った無限の自信、、、彼はそんな男だった。

 彼には金がなかった。学生時代は引っ越すのにも荷物をリヤカーにのせて大泉学園にある実家から高円寺まで運ぶという力に任せたことをやっていた。引っ越す先も月1万円の家賃という信じがたいアパートで、雪が降ると雪が部屋の中に降って来る、いわば限りなく野宿に近い生活をしていた。飯といえばご飯にマヨネーズとしょうゆをかけて食べるという質素なもので、玄米を4合も食べることができる宮沢賢治のほうがまだましな生活を送っていたかもしれない。ちなみに高円寺に引っ越した彼の消息を彼のご両親が知ったのはその1年後だったようだ。部活で顔を合わせているから特に気にもしていなかったが、用事があって実家に電話するといつも留守で、彼のご両親にはいつも、
 「あの子は元気にしているんですか?」
と聞かれたものだった。
 彼は餃子をこよなく愛していた。ある日彼は百円餃子を買おうと1円玉を100枚集めて百円餃子の店に行った。しかし、3%の消費税が課されるようになった直後で結局買えなかった。ただこの恐るべき悲劇が悲劇に見えないところが彼の不思議な魅力でもあった。
 金がなかったからであろうか?大和(だいわ)不動産などに世話になる機会もなかったのだろう。彼はカタカナで「ダイワ」と書かれた看板をいつまでも「ダイク」と読み続けていたことは今でもよく覚えている。慶応大学医学部の文盲率は案外高かったのかもしれない。
 そういえばディズニーランドでバイトをしていたことがあるという話もしていた。小さい船の船長をやっていたそうで、
 「俺はキャプテンクックだったんだ」
と遠い目をしながら言っていたものだった。しかし、遅刻等の理由によって解雇されたらしい。それにしても「ダイワ」すらロクに読めない男がキャプテンクックなどになりすまして無垢な子供に夢を与えていいものなのだろうか?
 そんな彼も大学を卒業して働き出したら少しは金ができたのか、京都に引っ越すときにトラックを借りることができるようになった。引越しを手伝うように頼まれ、トラックの話を聞いた時は、
 「やっと人並みの生活ができるようになったんだな」
と感慨にふけっていたものだったが、
 「日帰りなんだよ」
と言われた時には、思わず、
 「今でも困ってるんですか?」
と聞いてしまった。それに対して彼は間髪入れずに、
 「困ってるよ」
と答えた。しかし一方で、
 「大丈夫だ。安心してくれ。先週やっと20時間オーバーだったが、運転免許を取ったよ。運転は任せてくれ」
という自信も見せつけた。絶対任せてはならないと心に誓ったが、京都で荷物を降ろし、東京への帰路についたときにはさすがに恐ろしい睡魔が襲ってきた。あまりにつらかったので、つい彼に運転を頼んでしまった。彼はどこにでも自転車で行く男だった。彼の運転技術のルーツは自転車にあった。彼がトラックを走らせ始めてからどのくらいたっただろうか?私はうとうとしていたが、彼もうとうとしていた。前の車のブレーキランプがついた。こちらもブレーキをしないといけない。しかし、トラックのスピードは下がらない。
 「どうしたんだろう?」
と彼のほうを見た。彼はハンドルにのせた手を開いたり閉じたりしてひたすら自転車のブレーキをかけるしぐさを猿のように繰り返していた。
 「やべえ、ブレーキがきかねえ。」
と彼がつぶやいた刹那、
 「足ですよ!」
と大声で怒鳴った。わずかな差で致命的な事故を回避することができた。やはり彼には任せられなかった。

 話がそれた。問題は彼に託された10枚のパー券である。私はおもむろに立ち上がると、当時よく使っていた黒の革ジャンを羽織って車に乗り込み、実家の近くの某お嬢様大学に券を売りに行った。校門の前を塞ぐような形で車を止めると、
 「パー券あるよ。慶応医学部だよ」
といって営業にとりかかった。しかし、寄ってきたのは女子大生ではなく守衛のおっさんだった。
 「だふ屋お断りだよ。」
私は大学からつまみ出された。
仕方がないので行き着けの近所の床屋のにいちゃんに頼んでみた。そのにいちゃんはボビーブラウンを愛するちょっといかした若者だった。私にも  「もっとおしゃれしなよ。ボビーブラウンとか聞いてさ。」
と長い髪の毛を軽くかき上げながら言っていたものだった。私は、
 「そんなにいかしてるんだったらパー券の数枚くらいさばくことができる女性もたくさん知ってるだろう。」
と思っただけだった。私は彼に、
 「このパー券さばいてくれませんか?」
と頼んだ。彼は、
 「任せてよ。」
と心よく引き受けてくれた。その数日後電話があった。売れたということだったので金を徴収しにいった。彼はなぜか疲れた顔をしていた。ちょっと無愛想に、
 「6枚売れたよ。」
といって金を渡した。それから間もなくしてその床屋はつぶれた。もしかしたらパー券を売ったことによって客を失ってしまったのかもしれない、、、、そんなことも頭をかすめた。
 私はだふ屋に成り下がり、いかした床屋のにいちゃんはいかさないただのにいちゃんになってしまった、、、金がない先輩から送られてきたそのパー券には不思議な魔力があった。

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